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落合博満が欲しがった6人の選手と1人の参謀|鈴木孝政との対立は?

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くま@野球ブログ3年目(@Twitter)です。

常勝軍団を作り上げた名将『落合博満』。その手腕によって導かれたドラゴンズは就任一年目に優勝しており、 日本一が1回リーグ優勝4回、2位が2回、3位が1回 と輝かしい成績であった。

その手腕は選手の育成ではなく、コーチへの指導や・選手の起用方法によって発揮されることになる。今日はそんな落合博満がどうしても欲しくなった選手・コーチを紹介します。

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落合博満の考え

今回の記事は以下の本を読んだ知ったこと、実際の成績をもとに情報をまとめています。

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落合博満が欲しがった7人の男

落合博満がどうしても欲しかった7人の選手・コーチを紹介します。

  1. 森繁和 名参謀
  2. 小田幸平 大もうけと言っていい
  3. 川相昌弘 ギネス記録の持ち主
  4. 河原純一 無職の男
  5. 和田一浩 高齢のアーチスト
  6. 工藤隆人 宝の山
  7. 八木智哉 カープキラー

森繁和 名参謀

徹底された情報統制

落合監督の右腕として、さらに見た目の強面具合が印象的な森繁和。落合監督がドラゴンズから監督の要請を受けた直後に連絡を取った人物。

口が堅く絶対に投手の調子などを外に漏らさない

このことを誰よりも高く評価していた落合監督は、『落合だ、来年手伝ってくれ』それに対して森は『ハイわかりました』。この時に森はどのチームに所属するかは知らなかった様子。

投手陣の運営の責任を負う

落合監督は投手運用に関しては、森にすべてを任せていました。唯一口を出したのは、自身の開幕戦でもある2004年の開幕戦の先発投手のみ。それくらい絶大な信頼を置いていました。

当時MVPを獲得した浅尾拓也やエースとして君臨した吉見一起もお父さんのような存在として信頼していました。

情報漏洩の疑いがある人間は徹底して排除

しかし、森を参謀に抱えても『翌日の先発投手の状態』が外部になぜか漏れてしまうのが当時のドラゴンズ。森と落合は協力し合ってその犯人を鈴木孝政だと突き詰めます。こうしてマスコミには情報を与えない中日ドラゴンズが完成されていくのです。落合監督は、立浪監督とはよくも悪くも対照的な存在です。

鈴木孝政さんは当時について

ドラゴンズのOB会長を務める、鈴木孝政さんは当時をこう振り返っています。

落合さんはマスコミにあまりしゃべらないでしょ。そしたら記者はみんな俺のところに来るでしょ。あっちがしゃべらないから、聞きにくるでしょ。何にもネタがなかったら、記者も仕事にならない。それなりにしゃべってやればいいじゃない。それも仕事だからね、プロの。そういうのもひとつ原因だったと思うよ。俺はただ監督の手伝いをしようと思っただけだったけど、ちょっと違っていたね……

本人としては、ドラゴンズのためを思ってやっていたことだったんですね。興行としてのプロ野球を尊重した考え方です。

小田幸平 大もうけと言っていい

巨人時代は3番手捕手

巨人時代は正捕手の『阿部慎之助』の休養日に出場する程度。しかし、2005年にFAで巨人に移籍した野口茂樹の人的補償として、中日ドラゴンズに移籍することになる。

「大もうけと言っていいんじゃないのかな」

当時の落合監督は「正直言って小田が(プロテクトから)外れていると思わなかったよ」と語っており、その能力の高さを誰よりも買っていた。小田が中日に人的補償に選ばれた理由は、巨人時代に中日戦で荒木雅博と井端弘和の盗塁を阻止していたことが落合に評価されていたため。落合監督は『何か一つの芸に秀でている選手』の活路を見出すのがとにかく上手であった。

「やりましたーっ!!」が定番に

2010年「やりましたーっ!!」と絶叫して爆笑を呼び、チームやファンに定番になった。この言葉は流行し、グッズも発売された。当時のドラゴンズは冷静沈着のイメージがあり、その中でも目立った存在になった。

福永選手を推薦したのは小田幸平さん

立浪政権下でコーチをしている小田幸平さん。実は福永選手の獲得を推薦した存在でもあります。打てる二遊間を探している立浪監督に、社会人に打てる奴が一人います。と推薦したのが小田幸平コーチでした。

川相昌弘 ギネス記録の持ち主

現役引退を撤回

2003年、ギネス記録となる通算512犠打を達成し引退を発表。原監督から内野守備コーチを要請されていたのが理由とされていたが、原監督が突如辞任。川相は現役復帰を求めるものの『一度引退したせんしゅと契約はできない』と巨人を退団せざる終えなくなる。

まさに「一芸に秀でている選手」

巨人から退団した直後、「どこでプレーするんだ?」と落合監督から連絡が入る。「一芸に秀でている選手を起用する」という采配に合致する活躍を見せ、地味ながらも代打バント・守備要員として存在感を発揮。さらに6度のゴールデングラブ賞を受賞したことのある経験で、荒木井端の両内野手の育成にもかかわった。引退時の挨拶では「24年間の選手生活の中で、中日での3年間が最高だった。」と語った。

河原純一 無職の男

無職になった男

2007年右膝の故障の影響もあり西武から戦力外通告を受けた。打者5人に対して、2三振を含むノーヒットに抑える好投。結局、膝の状態が懸念され、どの球団も河原に声をかけることはなかったが、「膝が治れば絶対にできる自信がある」と、“浪人生”としてトレーニングを続けることを決意。35歳の河原純一は翌年、無職となった。

「勝利の方程式」の一角

“無職男”に救済の手を差し伸べたのが落合監督。西武時代の「経験の多さ」を買った。「勝利の方程式」の一角を任されるまでの信用を得た

2011年に不本意な戦力外

そんな河原であったが、2011年に戦力外となる。これは2011年で退団が決まってた落合監督派閥の人間を排除するためだったとされる。これに反して落合監督は日本シリーズでも『戦力外通行をされている河原』を起用し続けた。

後にも先にも『戦力外通告をされている投手』が日本シリーズに投げたことはこれだけである。落合監督が最後にマウンドへ行ったのは思い出深い

和田一浩 高齢のアーチスト

引け目を感じたFA移籍

「幼いころからの憧れの球団」である中日へFA移籍したのは、35歳になったシーズン。自身が高齢でありながら、FA移籍することでドラゴンズの若い選手の活躍の場を奪うことが嫌だった和田選手。27歳で通算安打が34本でした。

自分のことだけを考えろ

そんな和田選手に当時の落合監督が言ったのは『お前はクリーンナップで使い続ける』でした。初めから和田選手のへの不安に気が付いていたんですね。

大砲として期待された和田選手。シーズン中に右打ちし進塁打を狙ったバッティングをした和田選手に対して『お前は自分のことだけを考えればいい』と落合監督に言われたことがきっかけで、勝敗ではなく自身の成績を向上させるためのバッティング切り替える。結果として2010年にはドラゴンズの日本人として最多の37本塁打を放ち、MVPに輝いた。

2023 バッティングコーチへ

中日1軍打撃コーチに和田一浩さん招聘されることがわかりました。チームには石川・鵜飼と右の大砲候補に対して育成する方針である。

工藤隆人 宝の山

「宝の山」に埋もれていた選手

トライアウトを「宝の山」と評したのが、中日・落合博満GM。「面白い存在もいっぱいいたな。(チームの)足りないところをどうやって、この宝の山から探し出せるか」と発言。そののちトライアウトから引き抜かれたのが工藤隆人だった

その後のキャリアにも生きる

17年に82試合出場するなど、5年間プレーしたあと、中日の1軍外野守備走塁コーチに就任。現役時代は日本ハム、巨人、ロッテ、中日と4球団を渡り歩いた経験から、縁もゆかりもない阪神タイガースのコーチを務める経験を積むことになった。

八木智哉 カープキラー

“カープにしか勝てない”男

八木は2014年オフのトライアウトを視察した当時の落合GMが獲得を決定した。すべての勝利を対広島戦で挙げたことから、「(広島)カープキラー」と呼ばれており、実際に広島線ばかりでの起用が続いた。

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